HISTORY

別鉄サッシ工業株式会社は、創業時から鉄(スチール)と共に歩んできました。
スチールと向き合い、スチールにこだわってきた、当社の歴史はまさに鉄の歴史。
戦前、戦後、高度経済成長を経て、現在、そしてこれから未来に向けても進化するスチールと共に別鉄サッシ工業は、新しい歴史を刻んでまいります。

誕 生

1941年(昭和16年)10月、別鉄サッシ工業株式会社は、創業者・篠原信夫が数名の仲間とともに、大分県別府にて建築金物製造業を開業したことに始まりました。
太平洋戦争が始まった同年、来たるべき鉄の需要拡大を見据えての会社設立でした。 周辺住民の方に迷惑をかけないよう、別府の中心部から離れた田畑しかないような場所で、100坪以上の木造バラックを構え、製鉄業としての基盤を着実に固めていきました。

戦時中は、工場周辺のお百姓さんの鍬(くわ)や鋤(スキ)、鎌(カマ)など、鉄製農具の修理も手掛けていました。
もともとの農機具を再利用する形で、悪くなった部分を焼いて、叩き、鍛え、また使えるように加工するのです。
モノ不足で、新しい農機具を買おうにも買えない時代ゆえ、修理サービスはとても喜ばれ、お礼に米や季節の野菜をいただきました。
そのため深刻な食糧不足のなかでも、私たち家族は常に白米を口にできました。
国民学校に持参するお弁当に白いご飯が入っていた生徒は50人、60人いるクラスのなかでもわずか一人か二人。
親の仕事をありがたく、感謝した記憶が残っています。

成 長

戦中、戦後の混乱が収まらず、各種材料が不足するなか、海軍の指定工場となった別鉄サッシ工業株式会社は、鉄鋼の基になる粗鋼を優先的に入手し、加工費で財を成していきました。
1953年(昭和28年)、九州でもいち早く鋼鉄建具向けの設備を完備し、スチールサッシや手すりをはじめとする建築に関係する金物一連を製造し、鋼鉄建具製造企業としての地位を築いていきます。

戦後、復員や引き揚げの人たちが門司や下関から下りの汽車に乗り込むと、途中、車窓から別鉄サッシ工業の工場がよく見えたこともあり、弊社で働きたいと希望する人が後を絶ちませんでした。
私の父、創業者の篠原信夫は、海軍任命工場の責任者ということで合法的に兵役を免除される立場でしたが、自分の弟2人が戦死していたこともあり、自分だけ出陣していないことを後悔していました。
そのため、少しでも戦争功労者の役に立ちたいと、働き口を求める人は皆、雇いました。
そうして大勢の働き手を迎え入れ、労働力を確保していました。

日本国内では、戦争で焼け野原となった日本を復興させるため、建物の復興がスタート。
戦時中の乱伐で山林は荒廃し、政府は1955年(昭和30年)1月に木材の枯渇を防ぐ「木材資源利用合理化方策」を閣議決定、「木材代替資源の使用普及の促進」を図ります。 そんな時代背景の影響を受け、昭和30年代には建築スタイルもそれまで主流だった木製のサッシからスチールサッシへと変化していきました。

1955(昭和30)年に設立された日本住宅公団が住宅のサッシを、木製から鋼製に替える動きを見せたことを受け、「社団法人日本サッシ協会」は、建設省・日本住宅公団に鋼製サッシの規格化を働きかけます。
住宅公団鋼製建具規格が正式に決定、集合住宅へのスチールサッシ導入の道が開けました。
1956(昭和31)年には、スチールサッシの断面・仕様・寸法すべてを標準化することで、量産化によるコストダウンを図り、集合住宅のみならず、学校、病院などの公共施設に多く用られるようになりました。

時代に流されず

しかし、昭和45年以降(1970年代)に入ると、スチールサッシに替わり、アルミサッシが一気に普及します。
押出加工によるたった1回の工程で製造できるアルミは設備投資も少なくてすむことから、スチールサッシの加工からアルミサッシの加工へと事業変換する会社が続出。

鉄を扱う会社が激減するなか、別鉄サッシ工業は鉄の製造を維持継続、そればかりか逆に設備を増設・拡充し、100人近い従業員を雇い、工場を稼働していました。
アルミサッシの台頭により主役の座を追われたスチール製品は、その後、主にビルの防火扉として生き残り、独自の市場を形成。
別鉄サッシ工業でも、住宅、ビル用のスチールドアの普及が追い風となり、売り上げは順調に伸びていきました。

一方のアルミサッシはその普及に伴い、アルミサッシメーカーが乱立、アルミの加工費用は価格競争に陥ります。
メーカーが自社工場で製造を始めるようになると、受注加工を請け負っていた企業のなかには倒産においやられる企業も少なくありませんでした。

別鉄サッシ工業が倒産の危機にも陥らず、事業が成長した要因は、自らのスチール製品に自信を持ち、粘り強く製造活動を維持し続けたことにあります。
他社がアルミ事業に移行するなか、ぶれずにスチール製造一本に絞り、常に品質と生産方式に改良を重ね、実用性を兼ねた優れた製品を世に送り出してきたからです。

発 展

2000年(平成12年)二代目、篠原一夫が代表取締役社長に就任。
2008年(平成20年)11月には、新社屋完成、新工場の稼働スタート。
窓枠やドアなど住宅建具だけではなく、鉄骨、スチール製階段など、鋼構造物の設計から製作・施工まで、全般に携わることで関係各社より高い評価をいただくようになり、2011年(平成23年)、福岡支店を開設するまでに成長します。
それをきっかけに地元九州のみならず、中部、関東エリアからの発注も増加、現在、営業エリアをどんどん東へと広げていっています。
2023年(令和5年)三代目、篠原大介が代表取締役社長に就任。

国内外から注目を集める建築物の金属建具にも採用。

創業80周年〜その先へ

2020年、創業80年を迎えます。
次代の別鉄サッシ工業を担う技術の継承者、事業の継承者の育成を行い100年後の未来へつなげていくべく、一層の努力を実施してまいります。

前史〜起業に至るまで

昭和初期、初代代表、篠原信夫が個人営業にて、農機具の貸し屋をスタート。鋤や鍬など、鉄製農具を近隣の農家に貸し出して生計をたてていました。

誕生

1941年(昭和16年)10月
建築金物製造会社を設立。
創業者・篠原信夫が数名の仲間とともに、大分県別府にて建築金物製造業を開業したことに始まりました。

1946年(昭和21年)
二代目・篠原一夫誕生

躍進

1953年(昭和28年)4月 鋼鉄建具の製造を開始。
鉄サッシや手すりをはじめとする建築に関係する金物一連を製造し、鋼鉄建具のパイオニアとしての地位を築いていきます。

1963年(昭和38年)3月 スチールサッシ。
日本サッシ協会正会員・日本軽金属株式会社特約店契約

時代に流されず

1972年(昭和47年)4月
日本軽金属株式会社指定代理店および九州地区(加工・組立)指定工場

1978年(昭和53年)10月
新日軽株式会社九州地区(加工・組立)指定工場

1991年(平成3年)7月
スチール工場設備増設・拡充

1992年(平成4年)3月
アルミ工場設備増設・拡充

発展

2000年(平成12年)10月
二代目、篠原一夫が代表取締役社長に就任

2005年(平成17年)3月
設計・積算コンピュータシステム拡張完備

2008年(平成20年)11月
速見郡日出町にて新社屋完成、新工場オープン

2011年(平成23年)
福岡支店開設。関東地区からの依頼が増加。

2023年(令和5年)
三代目、篠原大介が代表取締役社長に就任